潮風が頬を掠める。独特の磯の香りは、慣れてくると気にならなくなってくるものだ。 「ていっ」 水を撒き散らしながら、大人の肘まである魚が甲板に叩きつけられた。 海で自由を満喫していた魚は、口に針を引っ掛けながら、縦横無尽に暴れて音を立てる。遅れて歓声が上がる。 「おおっ」 イオがおっかなびっくり見つめている。近寄りたいようだが、力強い動きと、はじめてみる生きた魚に驚きを覚えていた。ウェインが丁寧に針をはずし、仲間へ投げる。 「・・・アリシアちゃん。あんた、すごいねえ」 「そりゃあ、ルーカスの腕をつぶすぐらいだから、軽いだろう」 「ちょ・・・!ウェインさん、その話はやめてください!やろうと思ってやったわけじゃないんですから!」 「だから面白いんじゃないか。ほら次、かかったようだ」 「あっ・・・やばっ」 目を丸々とさせるマリアをよそに、アリシアはいとも簡単に釣竿を持ち上げ、魚を釣り上げる。 この船、実は決して小さくない。甲板から海面までの距離は相当あり、従って釣り上げる際も相当な腕力を必要とするのだが・・・それを若い女性が鍋でも振るうが如くの容易さで持ち上げる様は、けっこう迫力がある。 一通り釣り上げると、一息ついたアリシアが頬を上気させて、甲板で茶を啜っていたマリアたちの元へ戻ってきた。 「釣れますね」 「群れにあたったからね。あれだけ釣り上げてくれたら、今日のご飯は豪勢になるよ」 さんさんと降り注ぐ太陽の光は、少し汗ばむぐらいに強かった。日傘の陰で涼んでいたマリアは、アリシアにも飲み物を用意してくれた。イオは、実は散々甲板ではしゃぎまわったので疲れきっているが、まだ探検したりないといった風である。 船のいたるところでは、傭兵たちがあちこちでカードゲームや、真昼間から酒を飲んでいたりと実に様々だ。或いは掃除をしていたり、魚を解体したりと実に騒がしい。 とにかく目に付くものすべてが新鮮で、イオ同様アリシアも物珍しそうに船を見回している。 「アリシアちゃん、こういうところははじめてかい」 「はい」 「だろうねえ。・・・あんた、北の出身だろ?」 ぎくりとした。マリアは少しばかり困ったように笑う。 「髪の色を見ればわかるよ。あんたみたいに綺麗に特徴が出てるのもちょっと珍しいけど・・・北は戦争が長く続いてた。良い印象じゃないんだね」 流石に、あちこち旅をするだけあって知識が豊富らしい。 アリシアにとって、本音を言えば「傭兵」とは恐ろしいイメージしかない。幼いころ見ていた傭兵とは恐ろしい存在で、荒くれもの揃いといった印象だった。それが、こうして和気藹々としている姿を見ると、その考えは偏見だったのだなと思い知らされていたのだ。 「すみません。マリアさんたちを悪く言うつもりはないんですけれど・・・」 「いいよいいよ。見てればわかる。あんたはいい子だよ」 そういって、にっこり微笑まれると気恥ずかしいような、まるで自分が小さな子供になってしまったような不思議な錯覚を覚えてしまう。 そんなアリシアを暖かく見ていたマリアだが、だけどと口を開いた。 「本当に綺麗に髪の色が出てるんだね。あたしもそこまで綺麗に出てるのは、あんまり見かけたこと・・・ない・・・?」 最後になるにつれ、怪しげに語尾が歪んだ。マリア自身不思議そうに首をかしげ、まじまじとアリシアを見つめ、身を乗り出した。 「そういえば、あんた親父さんは?」 「え?」 「あ、いや・・・両親はいるのかい?一人暮らしなのかなって、ねえ。あの馬鹿息子だけど、顔合わせは済ませたのかい?」 「へ?あ・・・いえ、あの、私、親はいませんので」 「・・・そうなのかい?」 「亡くなっていると思います。その、物心ついたときには一人でしたので」 まさかこの場で物乞いをやっていましたとも言える筈がない。 イオが僅かばかり目を見開いたが、口を挟もうとはしなかった。返答を聞いたマリアは、背もたれに背中を預けなおし、息を吐いた。 「そう・・・悪いね。答えにくいことを聞いちゃったみたいだよ」 「気になることだと思いますから」 そこで、マリアを呼ぶ女性たちの声で、その場はお開きになった。自由に散策して良いと、ウェインから一通りの案内をされ、彼らの二番目の兄だというイケルという人のみ顔を合わせた。 一言で言うなら彼もまた、兄弟たちとは似ても似つかぬ偉丈夫だった。 荒々しそうではあったが、アルナルとは違い身長があり、計算高そうな印象だった。下の兄弟たちは知らないが三男がウェインで、四男がルーカスだとしたら、なかなか面白そうな、特徴的な兄弟なのかもしれない。 夜になりマリア直々のもてなしをうけ終わると、用意された部屋で横になった。寝台と物書き机のみの素朴な部屋だが清潔なシーツと、清掃の行き届いた室内は居心地の良さを感じさせる。 隣の小部屋にはカーテンで仕切りがあって、奥に水がめと柄杓が置かれている。この水がめは桶へ水を汲み入れ、顔を洗うためのものだ。 近くには浅く広めの桶もおかれている。あとでお湯を持ってきてもらって、この中で体を洗うのだ。つい忘れがちだが、ドネヴィアのように水道施設が民間にまで行き届いている方が異常なのである。 マリアは料理上手で、その出来は満足できるものだった。夕餉はジラやマリア、ウェインたちと共にしたが、アルブレヒトや他の兄弟たちとはやはり顔を合わせることはなかった。「明日は盛大にやろうねえ」と笑っていたマリアの笑顔が印象的である。 イオはマリアたちの部屋に泊まることになっているから、アリシア一人だ。 色々ありすぎて、頭の中を整理するには丁度良い。 壁にかけられたランプの炎がゆらゆらと揺れている。ぼうっとしていると、ドアがノックされた。 ドアを開くと廊下に、薄汚れた格好のルーカスが盆に水差しを乗せて立っている。 「・・・・・・ええと」 「飲み水、必要かと思って」 アルブレヒトの部屋から出る前、アルナルにがっちりと捕まえられながら連れ去られたルーカスだが、酷い汚れようだ。あちこち煤だらけで、よれよれになったシャツはボタンも閉められてないし、頭に巻かれた手ぬぐい姿は、言い方は悪いがまるきり海賊だ。 「・・・という口実で、抜け出してきた。頼む、少しかくまってくれ」 ルーカスへアルブレヒトから言い渡された罰は、ずばり船での労働である。先ほどまでは鍛冶場にいたのだという。なぜ鍛冶場なのかはわからないが、椅子にぐったりと座り込みながら、このあとは最悪に面倒くさい作業が残っているのだとぼやいた。 そちらはアリシアもウェインから聞いている。 通常船とは帆を使い、風を利用し航行するものだが、この船、高い金をかけて魔法仕掛けの、補助動力のようなものを設置しているらしい。これがいざというとき船の加速を手助けしているらしく、魔法を知らない素人でも動かせるよう金属と組み合わせ作られているのだが、最近それがうまく動かないらしい。作った技術者に見せる手前だったのだが、それよりも先にルーカスの情報が入ったので、丁度魔法に精通しているし、直させようとなったらしいのだ。 要は莫大な金が掛かるので、身内にただで修理させたいという魂胆だった。 「俺は技術者じゃないんだがなあ」 「直せないんですか?」 「いいや、中の術式を構築しなおせばいいだけだから、一応俺でも直せる」 が、最高に嫌そうに顔を歪めた。 「面倒くさい。油断してるとイケルは殴りにくるし、末っ子はうるさいし、連中人使いが荒すぎる」 「でも良かったじゃないですか。たいして怒られなくて」 「むさ苦しいんだぞ。下にいるのは筋肉達磨だらけだ。暑いし臭いし目にも毒だし散々だ」 「もっと酷い目に合うよりマシでしょう?」 「・・・お袋に懐柔されたな」 「なんのことでしょ」 恨みがましそうな視線を流しながら、布に水を浸しぎゅっと絞るとルーカスへ手渡した。ひととおり拭き終わる頃には、桶の水はすっかり汚れてしまっている。 「ああ、腹減った」 「ご飯は食べてないんですか」 「あれだけ働かされたら消費が激しいんだ。俺だってもう若くないんだから勘弁してほしいよ」 「・・・ハーウェイからからかわれるたびに、いっつも俺はまだ若いんだって言ってたのは誰でしたっけ」 「なんのことだろうな。ところでアリシア」 手招きされて、近寄ると今度は抱きしめられる。突然の力強い抱擁に驚いたものの、抵抗はしなかった。アリシアがしたことといえば、軽く彼の背を叩いたぐらいである。 「悪いな。付き合わせて。連中がなにかしてきたら速攻叩きのめしていいぞ」 「・・・連中というのはともかく・・・。私、別に嫌だなんて思ってませんよ」 「そうか?」 「そうですよ」 マリアのことも、話してはいないがアルブレヒトも、この船の人たちも、今日この場にいることもアリシアは嫌だなんて思ってはいない。 「驚きはしましたけど。・・・で、あの、マリアさん達の・・・誤解はどうしようかとは・・・。・・・・・・うーん。ええと、その。ルーカス」 「ん?」 「・・・好きですよ?」 顔を上げ、ルーカスを見上げて放った一言は唐突だった。対して予期せぬ一言に硬直していたルーカスは、ぱっとアリシアから手を離す。距離をあけると、何事かと近寄ろうとしたアリシアに、待ったと動作のみで停止を呼びかけた。 「近寄るな」 「ルーカス?なんで」 「いいから。今はまずい」 深呼吸をして、瞳を閉じると落ち着けるためなのか、こめかみを揉み解す。だがいくら深呼吸を繰り返しても、ルーカスの苦悶の表情は消えることがなかった。最後には諦めたのか、深いため息を吐くと早々にドアノブへと手をかける。 「駄目だ、すまん。風に当たってくる。そのまま下に戻るから。うん」 「あっ・・・まだ、話の続きがっ!」 いざというときの素早さはアリシアの方が上である。逃げようとするルーカスの腕を掴んだのだが、そうすると今度はぴたりとルーカスの動きが止まった。 まるきり挙動不審だ。訝しげに面を上げると、「あのな」と声がかかり、唇が触れ合った。 ついばむような優しいものではなく、奪うような激しさを含んだそれである。腰を持ち上げられ、逃げられぬよう丹念に深く探られる。いつもとは違う、親愛を超えた情欲の口付けだった。 寝台に倒されると、首筋に唇が添えられた。つう、となぞる感触に思わず声が漏れ、ぎゅっと目を瞑る。だが、次はなにもなかった。おそるおそる瞼を持ち上げると、苦い面持ちで、ルーカスがアリシアを見下ろしている。 「今みたいなのは困る。疲れてるんだから、理性が持たないんだ、勘弁してくれ。・・・わかってると思うが、俺は男なんだからな」 「う」 「いいよ。わかってるよ、アリシアは悪くない。だけどなあ・・・頼む。察してくれ」 つまりアリシアの行動が軽率だったらしい。頬を上気させたまま、頷いたアリシアだが、本題はまだ終わっていない。 「・・・陸に戻ったら、続きしませんか?」 遠まわしに言おうとも、なかなか思い浮かばない。だからこういう言い回しになったのだが・・・またしても、ルーカスは黙り込んだ。次に肩を掴む力が強くなった。 「そういうこと言うと、本気にするぞ」 これにはむっとなったアリシアである。疑うような言葉が癪に障ったのだ。 「なんですか。嫌ですか。私いま、元々そう言おうとしてたのに」 「・・・本当に?」 「だから、好きだから、もういいかなって・・・言おう思ってたのに、ルーカスがこんなことしたんでしょうっ」 本当はこんな直接的に言うつもりはなかった。もっと穏便に話を持っていくつもりだったのに、まるきり台無しである。熟れたトマトのように顔を真っ赤にして叫んだ。 「私だって気にしてたしっ、ちゃんと考えてたんです!私だってねえ、ことごとく跳ね除けて、悪かったと思ってたんですよっ。だけど私だって怖かったんですもの!・・・だって私の呪い、こういうこと含んで好きそうだし、それに呑まれそうだし、これ抑えるの大変なんですからね!?・・・絶対戻れなくなります。私、あなたが裏切ったら我慢できない。いいですか?裏切ったら殺しますよっ、私は重い女です!それでもいいんですね!?」 一気に叫んだものだから、最後になるとほとんど息が荒くなっていた。肩をいからせながら呼吸をするアリシアを、むしろ落ち着いたルーカスは見つめている。 「アリシア」 「なんですか!?」 「結婚するか」 今度はアリシアの動きが止まった。 まるで言葉の意味を脳が理解できていない。否、脳中枢に届くまでやたら長い時間を要しているというべきか。 色気もへったくれもなかった。だが紛れもないプロポーズである。ようやく神経に行き届いたころには、先ほどまでの勢いはどこへやったのか、金魚のように口をぱくぱくさせるアリシアに、自由にしろとルーカスは続ける。 「裏切るもなにも・・・何を今更。俺はあの時に、最初にちゃんと言った。ひとりにしないって。あの時にそういう女だってのも、呪いってのも抱えるつもりで言った」 アリシアの脳裏にルーカスの言う"最初"が思い起こされる。告白のときだ。確かにルーカスは言っている。アリシアを独りにしたりはしないと約束した。 「お、お・・・」 「お?」 わなわなと震える唇。それを見下ろしながら反芻してわざと首を傾げる姿は、アリシアを見て面白がっていた。 「思い切りが良すぎます!」 悲鳴に近い叫びだった。だが、目じりには涙が浮かび、ほとんど泣きそうだった。ルーカスは苦笑する。重い女だの、殺すだの、まったく本当に面倒くさい女だった。 けれど反面、いちいち警告する彼女が好きだ。手放したくないくせに泣きそうになりながら、必死に今なら戻れると、本当にそうしたら落ち込むくせに叫ぶ彼女が愛おしい。 ルーカスはきっと女運が悪い。だがそれも相手によりけりだ。アリシアが相手なら、不思議と苦とは思わない。 そもそも警告なんて手遅れだ。 そうでなければ、ルーカスは撃ったりなどしなかった。 もう数ヶ月前の話。彼と彼女が互いへの感情を明確にしたあのとき、アリシアの抱えるものを知った後に襲撃した館で会った男。本来彼女が手を下すはずだった男の命を、横から掠め取りなどしなかった。 二人の関係は知らない。だが、アリシアにとってあの男が重要な「何か」だったのは確かだった。奪えば彼女の重みになる。そうだとわかった上で、引き金を引いたのだから。 「なに笑ってるんですか」 「いや・・・そうそう。陸に戻ったら、続きしてもいいんだよな」 「うっ」 「言ったからな。俺は引かないぞ。・・・ま、結婚に関しては先だが、一応そのつもりって俺の意向は伝えておく。親父やお袋達にはそのまま言わせておけ。変に気を使わなくていいから」 指が頬をなでると、体が離れた。 「急かすつもりはなかったんだが・・・まあ、考えといてくれると嬉しい。それじゃそろそろ戻る。いい加減連中が探しに来そうだからな。・・・眠れるか?」 アリシアは性質上、睡眠を必要としない体である。眠りたいのなら魔法をかけていこうかという意味だったのだが―もしかしたら、ルーカスの本来の目的はそれだったのかもしれない―アリシアは首を横に振った。 「・・・いい。今日は起きてる」 「ちゃんと休めよ。おやすみ」 「おやすみなさい」 部屋にひとりになると、寝台に座ったままアリシアが顔を覆った。 うわあ・・・となんともいえない小さな叫び。先ほど首筋をはった感触が、今になって羞恥心を煽りだした。 「・・・・・・うー・・・」 ルーカス自身はわからないだろうが、離れる手前浮かべていた微笑は、男なのにぞくりと背筋があわ立つほど艶やかで、恐ろしかった。 相手はルーカスだから大丈夫なはずなのに。なぜか、身の危険を感じる。 「・・・・・・もしかして、わたし、はやまった?」 誰にあてたとも知れない呟きがぽつり、ゆらゆらと揺れる室内に、小さく響いた。 |