なにか言って欲しかった。


ベッドの上で膝を丸めながら、イオは鼻を啜った。

本当の父親でない事は知っていた。もしかしたら、物語のように、いつか本当のお父さんが迎えに来るかもしれないと、考えた事がないといえば嘘になる。

けれどそんなことを考えただけで、そんなときだってイオの傍にはルーカスがいて、結局のところ離れ離れになるとか、ルーカスがイオを手放すのだとか、思ったことはカケラもなかったのだ。

だからイオは言葉が欲しかった。わけもない不安と、「迎えに来た」といったウェインの言葉に、なんでもいいからいつだって安心をくれる言葉が欲しかった。

イオが見上げたそのときの表情は、何を考えているのかまったくわからなかった。

だから怖い。

もしかして本当に必要がないと思われていたのか。彼らを知るほかの人々がそんな感想を聞けば、決してそんなことはないと答えてくれるだろう。だがイオからみた世界は、ルーカスが全てなのだ。その形が崩されようとしている今、なによりも彼からの答えが欲しかった。

もう一度鼻を啜ると、恐怖に小さく身を縮こませた。







アリシアは口を噤んだまま、改めてルーカスの横に座りなおした。アリシアから口を開く事はない。ただ、時折気遣うようにイオの部屋がある場所へと顔を上げていた。

「聞きたいことは?」

沈黙に耐えかねたのはルーカスだったのだろう。いつもならば、こういうときはアリシアが戸惑いながらもルーカスを質問攻めにするのに、それをしなかった。それどころか、逆に落ち着き払っているようにも見える。

「ん、あんまり」

「ない?」

「だって、否定しないから。いつもと様子が違うし、じゃあ本当なんだろうなって」

「そうか」

「はい」

本当は、聞きたいこともたくさんあるし、気にかかっている事もある。けれどあえて問おうとはアリシアは思わないのだ。実はアリシアがルーカスの過去について、細かく突き詰めた事は、ない。
逆にルーカスも、アリシアの過去を深く問いかけた事はないのだ。

アリシアは己が孤児だったことは話した事があるが、その境遇について、語った事はない。そのあたりにおいてはぼやかし、有耶無耶にしてしまう。ルーカスも気付いていて、問おうとはしないのだ。

同様にアリシアも彼が過去、どのような仕事を行ってきたのか、気付いてしまう時もある。傭兵が、決して奇麗事だけの世界だけでないというのは、自分が戦争孤児というものだから、嫌でも知っている。

恋人同士だから、なんでも話せばいいというものではないと、アリシアは思うのだ。
むしろ逆でもある。知らなくてもいいのだ。大体、過去にルーカスがなにをやらかしていようと、現在のルーカスという人が変わるわけではないし、アリシアが彼を好きでいる事に変わりはない。

ただ、あのときアリシアが感情を制御できなくなって、泣きじゃくり胸を借りたように、そういうときに傍にいられたらと思うのだ。

そもそも自分が前科持ちだった、と思い出すと苦笑が零れる。

「・・・どうしたいですか?」

だから、問わなければならないのはルーカスがどうしたいかだ。イオに決めさせると彼は言っていたが、ルーカスがどうなって欲しいと願っているかは別物だ。

諦めにも似た嘆息に次いで、藍色の瞳が天井を仰いだ。

「この生活を続けたい」

簡単だからこそ、明瞭な答えだった。

「それって、イオも一緒にいるって意味でですよね」

「・・・アリシアもな」

「はい」

声が弾んだのは仕方ないというものだ。それに押されたかは知らないが、一気にルーカスの雰囲気が和らいだ。どうにでもなれ、というような表情。頭を掻くと、視線は過去へと向けられた。

「・・・と、今は答えたが。本当のことを言えば、もし親父が直接イオを捜しに来たら、渡すつもりだった」

「どうして?」

「愛してはいなかったから」

まさか、を目を見開くアリシアに、天井を仰いだ姿勢のままで「あのとき」と言葉をつむぐ。

「ウェインの言った通り、エレオノールの裏切りは知っていたよ。あいつは、俺と一緒になったのはいいけど、ずっと他の誰かを見ていたから。そもそも・・・こう言うのは悪いが、恋愛をするっていう間柄じゃなかった」

これはこのあとジラから聞いた話なのだが、当時エレオノールはおそらく、焦っていたのではないのだろうかと教えてくれた。当時エレオノールは結婚適齢期をやや過ぎた年齢で、両親ともに見合いを勧めていた。このままではどこか他家に嫁がされてしまっていた、というのだ。

そのとき、故郷に立ち寄っていたルーカスと再会した。昔馴染みだからか、過去の記憶から親しくなるのにはそれほど時間は必要なかった。実際、ルーカスとエレオノールが付き合い始めてから結婚に至るまでの道は、早かったらしい。

それに、彼は想い人の息子である。エレオノールがいつからその人に想いを寄せていたかはしらないが、近寄るための接点としては申し分なかったのだ。

「子供ができたって言われたときは、俺の子供じゃないとはすぐわかった。だから産まれたときも、感慨はなかった。子供の父親が親父だと教えられたときも、ああそうか、ぐらいだったな」

だから、エレオノールが、家族の前で衝撃の告白をしたときもルーカスは慌てなかったそうだ。

むしろ、父親はどう出るだろうか。義両親は卒倒でもするだろうかと暢気に考えていたらしい。エレオノールとは確実に別れることになるだろう。そうなると一団にも顔を出せなくなるだろうから、最後に血の繋がりはなかったが、愛情を注いでくれた母マリアの顔だけでも見ていこうと決めていたと言う。

「身内の騒ぎ程度で済むだろうとした予測を崩したのは、エレオノールの手紙だ。あいつの両親が私兵を連れて強襲をかけてきて、一団全体を巻き込んだおかげで事態がややこしくなった」

そのときもやはり、ルーカスは暢気だった。慌てる長兄を余所目に旅の準備をしていたのだという。閉じこもってしまった母には申し訳なく思っていたが、頭を抱える父アルブレヒトとエレオノールのやりとりを他人事のように眺めていた。

旅立ちは明け方と決めていた。ほとんどの人間が寝静まり、警戒も気が緩んでいる頃合である。強い雨の日、旅人の装いに、荷物を纏めたルーカスが外に出ようとしたときだった。

「遠くから泣き声が聞こえたんだ。声には聞き覚えがあったから、ありゃあ赤ん坊が泣いてるなってすぐに気付いた」

エレオノールは赤ん坊が生まれても、名前を付けようとはしなかった。両親、ルーカスも、頑なな彼女を不審に思っていたが、彼女はアルブレヒトに名前を付けて欲しかったのだろう。

名前のない子供は、赤ん坊用の小さな布団の上で泣いていた。
周囲には誰もいなかったとルーカスは言う。

一団の人間も寝ているか、周囲の警戒に周り人手が足りなかったのだろう。一団の女たちが住まう場所と赤ん坊の一角は離されていたし、強い雨が地面をたたきつける音に声はかき消されてしまっていた。周りには誰もいない。それどころか肝心の母親の姿は見当たらなかったのだ。

泣き声は弱ってきてるし、エレオノールは来る様子もない。かといってこのまま放置するのも、流石に後味が悪い。触れてみれば、赤ん坊の手足は冷え切っていた。

「・・・まあ、驚いた。こんなに小さいものなのかなと。そのとき、ちょっと考えたわけだ。子供がいなくなったらエレオノールはどうなるのかってな」

皮肉を含んだ微笑だった。含むような口調にふと、アリシアが横を見る。
相変わらず天井を見上げるルーカスをしばし眺めていたが、むっとしたかと思うと頬を掴み、つねった。

「アリシア、いだい」

「・・・そういう話をするときに、私の前で嘘はやめてください」

「いや、あながち嘘ってわけでも」

「・・・」

指は緩められたが、かわりに責めるような視線に、やりにくそうに視線を逸らした。

「・・・エレオノールは、子供を顧みなかった」

少し違うかな、と藍色の頭を振る。

「顧みるというより、それよりも先にあるのは親父のことで、子供は二の次だった。他のやつらも言ってたからな。あまり世話もしてなかったんだと思う。実際、俺が抱いたときも排泄物が垂れ流しで冷え切ってたし、おむつも替えてなかったから」

数日すれば事態は落ち着くだろう。だが、そのときに赤ん坊がどうなるかは、ルーカスでさえも予想がつかなかった。そもそも、アルブレヒトがエレオノールをどう思っていたのかすら、知らなかったのだ。

仕方がなく、苦戦しながらおむつを替えて、このままでは冷え切ってしまうと思って腕に抱いた。赤ん坊の世話などしたことがないルーカスは、どうしたらいいのか右往左往しながら、置いてあった道具を使って、暖かいミルクを用意して与えると、赤ん坊が泣き止んだ。

がりがりと頭を掻く。言いづらそうに、

「離したらまた泣くんだ。だからって、俺は留まるわけにもいかないし、エレオノールが来る様子もない。けど、外は寒くなってきていたし、また置いていったら泣くだろう?」

だから連れて行ったのだという。
ウェインが説明したように、当時は赤ん坊を殺せという意見もあった。もしものことがあれば、可哀想かもしれないという感情も湧き上がれば、本音を言えばエレオノールへの意趣返しもあり、腕に抱いた暖かさを惜しく思ったのもある。

だがすぐに気付かれるだろう、そうなれば身内も追いかけてくる。わざと足を遅くして彼らが追いつけるよう待ち、赤ん坊だけ返して、そのとき自分は旅に出ればいいと、勝手な話だがそう考えた。

不思議な事に、抱きかかえて一団を去る間、赤ん坊が再び泣き出すことはなかった。

「・・・が、追いかけてくる様子が一向にない。近場に宿を取って、逗留して二日経っても三日経ってもない。四日目五日目も姿形すら表さない。・・・で、これは本当に予想外だったんだが・・・いざこざに巻き込まれて、その町に逗留できなくなって、結局次の街に行った」

馬車で次の街に移動する間に、子供を抱きかかえるルーカスを見て、一緒に乗り合わせていた婦人が、すやすやと眠る赤ん坊の名前を尋ねた。

咄嗟に答える事ができず、思いつきで与えた名が「イオ」だった。

幼子を抱えて仕事をするのは難しかった。その間はほとんど、貯めていた金で生活していたようなものだ。そうしている間に一月二月、いつの間にか一年と日々が流れていった。

その間に、自分を慕ってくる小さな存在を手放すのが、惜しくなった。

ドネヴィアにたどり着いたとき、会ったのは女王の伴侶になった昔の相棒と、面識の薄い妹だった。それぞれ事情を話すと、タルヴィスにはまず殴られ喧嘩となり、ジラにはため息を吐かれた。

「それでも、二人で住めるよう協力してくれたから、感謝してる」

これもやはり後に、ジラとタルヴィスに聞いた話なのだが、どうしてイオを一団に返さなかったのかと問うと、当時の状況を詳しく知っていたジラはまず第一に、末妹がまともに愛情を受けられるかどうかをあやうんだと語った。

「・・・あのとき、表面上は落ち着いてたけど、それは肝心のイオがいなくなったからなのよ。まだ良くない状況が続いてたってのが一番。それに、イオが嬉しそうに、回らない舌でおとーさん、おとーさんって・・・追いかけてたから」

「あいつは否定するが、それはもう気持ち悪いぐらいに顔が緩んでて。なんだかんだで世話はしっかりしてたし・・・幸せそうだったし。彼女の意見を聞くに一団に返すのは難しそうだったから、かな」

「見ちゃいられない手つきだったわね」

「ああ、それは確かに」

結局、一団に黙っている事にしたと彼らは教えてくれた。



一通りルーカスの事情を聞き終えると、詰まっていた力を抜いて背もたれに身体を預けた。

「それでもウェインの言う通り誘拐は誘拐だから。制裁は受けるつもりでは、いるけどな」

「ねえ、ルーカス」

「ん?」

ここまで聞けば最後に二つ、聞きたくないことと、聞きたい質問がある。どちらが先でもよかったが、最初はあまり聞きたくない質問にした。

「エレオノールさんのこと、好きでしたか」

「ああ」

淀みのない答えだった。愛している、と聞けなかったのはアリシアの弱音である。つきん、と僅かに胸が痛んだがなんでもないふりをする。

いくら恋愛をする間柄でもないと言っても、以前のイーグレットとの会話からも、そういう気はしていた。そもそも、嫌いな人と一緒になるほど、我慢強い人でもない。

最後に、これは知りたい・・・というより再確認したいこと。
これはすんなりと声に出た。

「いまのあなたは、イオを愛してますか」

これは期待通りである。先ほどよりも力強く、返答は来た。


「もちろん愛してる。あいつは俺の、一番自慢の娘だよ」





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