ことり。
飲みかけのグラスを置き、彫りの浅い面差しに化粧を重ねた女。ジラが肘を突いて男へ問いかけた。

「おい。いい加減帰れ」

ソファにゆったりと腰掛ける男は半眼で彼女を睨む。深々と切れ上がったまなじりから涼やかに輝く藍色の眼。整った顔立ちで、野性味と精悍さがほどよくブレンドされている。

これが、ジラの友人アリシアの恋人である。

「いいじゃない。アリィちゃんもまだだし、イオも帰ってきてないんでしょう」

邪魔者を追い返そうとするルーカスをしれっとかわすと、悠々と足を組みかえる。ジラは普段さっぱりとした気性の持ち主で、艶やかさを感じさせる事はないのだが、今ばかりはどこか妖艶な雰囲気をかもし出していた。

「そういう問題じゃない。お前が居ると面倒くさい」

「面倒くさいって、アリィちゃんはそんな子じゃないわよ。それに誤解されたらされたで嬉しいくせに。それよりもねえ、アンタその自分の事になると話題を逸らす癖、どうにかしなさいよ」

「うるさいよ。大体お前相手に誤解もなにも生まれるか。鏡を見て出直して来い」

「あらまあ。それは思いっきり誤解されちゃうわ」

図々しくも仰々しく驚いてみせると、ルーカスはいらただしげに煙管の灰を捨てる。彼はアリシアやイオの前ではなるべく煙草を吸わないようにしていることに、今現在気付いているのはジラやタルヴィスぐらいであろう。

「そんなに嫌わなくてもいいのに。ま、確かにさあ、あんまりイイ話じゃないけど」

ほらみろ、と言わんばかりにルーカスが顔を歪めた。

「アンタの自業自得よ。イーグレット、向こうで言いふらしたそうよ?そりゃあもう盛大だったって聞いたわ。御大の耳に届くのもそうかからないと思うのよ」

今までは、と嘆息を付く。

「静かに暮らしたいってあんたの要望もあったし、振り向いて欲しかったからイーグレットも居場所を黙ってたけど、あれはもう駄目。裏切られたって女の執念は怖いわよ」

「・・・」

「馬鹿ねえ。今までどおり、適当に流してれば帰ってたのに」

「流してたらどうした」

「アリィちゃんが泣くからブン殴る」

矛盾を言葉にしつつもけど、と頬を掻いた。

「わかってるでしょ・・・アンタどうすんの?御大、絶対に来るわよ」

「随分大事だな」

「アンタが言うなアンタが・・・で、ここに留まるの?」

「イオはここで育ったんだぞ。いまさら移動できるか」

「アリィちゃんもいるものね」

「まあな」

「アンタがその気がないってのが分かったのは一安心・・・そこで、悪い知らせがもう一つあるわけなんだけど」

「さっさと終わらせて帰れ」

「ハイハイ愛娘と恋人との甘いお時間を邪魔して悪うございますねえ。けどね、そういっていられるのも今だけよ」

憎まれ口をたたきながら、真面目な顔つきになる。幾分、瞳に真剣さが増していたのはルーカスの気のせいではないだろう。

「・・・数日前、御大の一団船が港を発ったらしいって、小耳に挟んだっていったらアンタどうする?」







T.


「・・・ええ、と」

話はいたって簡単だった。
ルーカスの家に向かってみれば、家主はまだ帰宅しておらず、さらにイオが帰ってきた形跡はあったものの姿がなかった。だから、探しに来た。そして見つけた。

そして、これである。

「あっちいって!わたしはお母さんと帰るの!」

アリシアの服をしっかりと掴み、子猫が毛をさかなでるように青年二人を威嚇するイオ。

お母さん。

まだ頭が困惑から抜け出せていない。話の流れから察するに、おそらく自分のことなのだろうが、いったいどういうことか。疑惑の瞳が、青年二人とかち合った。アリシアもそうだが、茶髪の青年も同様だったらしい。

「・・・イオ。嘘を言ってはいけない」

「嘘じゃないもん!おか、お母さんだもん!」

「目が泳いでいる」

しゃがみこみ、視線を合わせた藍に近い黒髪の青年だけが、冷静にイオと会話を続ける。イオも焦っているのか、バレバレの表情と汗を流し叫んでいた。

とにかく説明を求めたい。どういうことなのか早く事情を聞きだしたかった。
そうでないと、

「嘘だとしても、いつか嘘じゃなくなるもん!いつかおかーさんになる人だから嘘言ってないもん!」

・・・このように、本人を置き去りにして話が勝手に進んでいくのである。

これには流石に表情を動かさなかった青年も押し黙り、探るような視線をアリシアに差し向け、そしてイオに再度向き合った。

「うそを言ってはいけない。あれは、昔から悪い女性としか縁がないんだ」

「わ、悪い?」

「そう。だから、この人が君のお母さんだということはありえないだろう」

「ひでえな、おい」

「事実を述べただけだ。あいつの女運の悪さは僕だけじゃなく長兄殿や親父殿だって手を焼かされたんだぞ」

「いや、なに自分のこと棚に上げてんだ?それに運が悪いっても、どう考えてもお前よりましじゃねえか」

「失敬な。僕の場合は運がないのではなく、好きでそうなのを選んでいるだけだ。無自覚と一緒にするな」

「ああ・・・いやだ。早く帰りたい。帰って解散したい。なんでこんなのと組まされたんだ」

「暇そうなのがお前だけだったからだ」

「暇じゃねえよっ。おれだって仕事ぐらいあるよ!」

「そう言うな。ルーカスは僕よりお前のほうが話を聞くんだ」

「・・なあ、お前あいつの兄貴だよな」

「馬鹿な。それ以外の何に見える」

「あなたがた、さっきから・・・!・・・は?兄?」

二人の独壇場に、たまりかねたアリシアが割り込むも、すぐにぽかんと無防備な表情を晒した。
そういえば青年の髪の色は藍色をしている。その色は普段アリシアがよく接している人にとても近い。しがみついているイオにも似ている。

しかし、青年の見た目はどう見積もってもアリシアと同年代にしか見えない。おそるおそる、口を挟んだ。

「あの・・・・・・つかぬ事を伺いますが」

「なんでしょうか。ご婦人」

「今おっしゃった、兄というのは・・・ルーカスの、お兄さんということでしょうか?」

「ルーカスというのがどのルーカスなのかは知らないが、それがこの子の父親だと名乗っている人物を指すのであれば、いかにも、と答えよう」

器用に片眉だけを上げ、真面目に頷く。
アリシアの胸のうちを理解したのか、茶髪の青年が「ああ」と神妙な表情で頷いた。

アリシアはルーカスの年齢を知っている。ついこの間三十路を迎え、嬉しくないとぼやく本人を目撃しているのである。そのルーカスでさえ、少し若めに見えなくもないが、年齢相応の外見を持っているのだ。

「詐欺だよな」

茶髪の青年が呟いた。イオも兄という言葉に反応したのか、まさかの身内の登場にスミレ色の瞳を目一杯開き、驚きを露にしている。

「・・・お父さんのお兄さん?じゃあ、おじさん?」

導き出されたのは当然の疑問だったが、イオの疑問に青年は首を横に振った。嫌がっていた表情から一転、興味津々の面差しに、はじめて青年の目元が和らいだ。

「違うよ。君は、僕の」

「ウェイン」

茶髪の青年の一言に、口を噤んだ。しゃべってはいけないという意図ではなく、彼が気にしたのはアリシアだった。

「ともあれ、そういうことを含めて君と話がしたいんだ。イオ、一緒においで」

「・・・お父さんがいいっていうなら行く」

「いや、それは・・・」

「じゃあ行かない」

ぷいっと意図的に、ウェインと呼ばれた藍色の髪の男性から顔を背ける。当のウェインはわずかに困惑をしめしたが、イオが呼びかけにもとうとう応じなくなると小さな肩に手を伸ばした。

ぴしゃりと叩き落したのはアリシアであり、双方の視線が交わる。

「ご婦人。お引取り願えないだろうか」

「お断りします。お話は大体察する事ができましたが、この国でのイオの保護者はあの人以外ありえません。犯罪行為を黙って見過ごすとお思いですか?」

もとより黙って行かす訳にもいかない。毅然と反論すると、ウェインは口を噤み、茶髪の青年は笑い声を上げた。

「だってよ、どうする犯罪者」

「こうする」

「わあ!?」

「なっ!?」

横からさらう様にイオを抱え込むという強硬手段に出たのである。そこまでならまだ良かったものの、まずい事にイオは相当の力でアリシアのスカートを掴んでいたので、一気にひざ上まで持ち上がり、脚が外気に晒される形となった。

これにはアリシアもまともに血相を変え、両手でスカートを押さえ込むと、茶髪の青年からひゅう、と上機嫌の口笛が飛ぶ。

「いい脚だ」

軽い調子の口調とは裏腹に、いつの間にか握ったのか、手のひらほどの刀身を持つ短剣をアリシアのスカートに差し入れた。縦に裂け目が入り、布が破けると同時に引っ張られていた力が消え失せる。

「待ちなさいっ、この変質者!」

普通ならここで座り込む所だが、小賢しいことにその隙に彼らはイオを連れ去ろうというのである。
意識的に四肢に力を込め、ウェインに追いすがろうとすると、またしても邪魔が入った。

小さくため息を吐いたウェインが腰元の小さな布袋に手をかけると、アリシアに向かって絞っていた紐を解き、大きく腕を振ったのである。

まさか粉薬だろうかとぎょっとしたのだが、そうではなかったらしい。


それどころか、もっと性質が悪かった。


卓越した視神経だからこそ捉えられたのだが、今回はそれが不幸となる。
ソレを目認した途端、アリシアの意識と身体が同時に強張った。悲鳴を上げる事も忘れたといってもいい。

・・・しつこいようだが、アリシアにも苦手なものはある。

アリシアは北方出身で、寒い地方の育ちである。ドネヴィアに来るまで住んでいた場所でも冬の寒さは厳しかったし、夏といえども肌寒い国だったため、ソレと遭遇した事など一度たりともなかった。

はじめてソレを認識したときは、物珍しさより寒気が先に立った。正直に言おう、逃げ腰ながら退治するために躍起になって部屋を半壊に追い込んだこともある。

アリシアにだって、苦手なものはあるのだ。

表現するなら、黒光りして、大きくて、羽の生えた異常に繁殖力のあるもので。
不潔な場所に生息するその虫が――。

「―――あ」

それが、アリシアに向かって、駆け寄ろうとするウェインから放たれて、飛んでくる。

「い――」

近づいてくる。このままでは当たる。真正面に当たる。顔のど真ん中だ。脳が理解する前に直感が叫んでいる。計り知れないダメージどころではない。一生背負う心の傷である。

嫌だ、と思う。けれどどっちが嫌かと言われれば、誰だって「こちら」を選ぶ。アリシアだってそうする。

心底恐ろしいときは悲鳴も出ない。このときのアリシアもまさにそうだった。

ばしん。

音がするのと同時に、手のひらが羽のわずかな振動を細かに感じ取った。
意味はないが、「終わった」と思った。ソレの生命と同時に、アリシアの大切な何かも大きく削れた。

さらに不運だったのは、アリシアの力の加減がつかなかったことだろう。
高速で放たれた手のひらが、反動を受け飛ばされる前に、風圧でソレが押しつぶされる感覚を、わずかながらでも感じてしまった事だ。


それから、ほんの数分間だけアリシアの意識は途切れている。



騒ぎになにごとかと近隣の人々が公園を覗き込んだとき、そこには地面に倒れこむ二名の男と、イオに頭を撫でられ、ルーカスに慰められながら、土に手を何度もこすり泣きじゃくるアリシアの姿が目撃されたという。





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