グ・ナーハという青年の身体があった痕跡は、消えうせた。 はじめから、そこにはなにもなかったかのように。 弾丸で撃ち抜かれても、ジェイは死んでいない。 異常な生命力に、アリシアが顔をしかめた。もしかしたら彼自身、自分をそのように強化していたのだろうか。 だがそう長くない。刃を鞘に収め、ひとまず距離を置くと死に体のジェイはのろのろと顔を上げる。少しだけ疲れた口調で、 「いつも私のものを奪うのは、お前たちだ」 つ、と目線を追いアリシアをもう一度見つめる。怒りや哀しみは見出せなかった。あるとしたら、友人を失った喪失感だけだろう。だがその胸の裡を明かすことはない。感覚はとうに麻痺していた。 アリシアの傍らにルーカスが立ったが、二人の会話に割り込むような真似はせず、耳を傾けている。ジェイは力が入らず身動きし難い様子だが、おかしな真似をすればすぐに撃ち抜くつもりだというのは言うまでもない。 「自分を実験台に?」 「勿論、だ。・・・いいや、種明かしをすれば」 はじめてあったときと同じ、能面のような表情。 なぜそう思ったかはわからなかった。だがふと、なぜかアリシアの口をついた。 「・・・あなたは、ジェイ本人?」 ジェイの口元がいびつに歪んだ。 「あれは今頃・・・この国の外だ。グ・ナーハの死と入れ替わりに、私が逃がした。あの私は、お前たちに・・・執着がない。世界の深淵にある、真理にしか、興味がない」 ふっ、と瞳が遠くを見た。 害はないといいたいのだろう。だからといって放っておく事はできないが、眉根を寄せていたルーカスが口を開いた。 「アリシア」 「わかってます・・・あなたは記憶を移植した、擬体を逃がしたのですね?」 ため息を吐いた。なおさらジェイがわからなくなったからだ。 この男もまた、友と同じく己を二つに分けた。そして、己の命よりも違う存在を優先したのだ。 くつくつとジェイが喉を鳴らした。 今までよく喋った。 最期の命の灯火というやつだろうか。死に際に、命の炎を燃やし尽くす、あがきがそこにあった。ジェイの瞳は朦朧としている。そろそろ死が近い。 「私には余計なものが多すぎた。あれに、渡して忘れる事もできた。忘れて・・・係わり合いにならないことが一番よかったのだろうに・・・なのに私は・・・お前に会ってしまったからな」 かすれた声は徐々にひんやりとした空気に溶けていく。 望み一筋だった男が、かつて己の道を決めたしるべと再会した。男にとっての不運は、それを捨て置けばよかったのに、できなかったことだった。 関われば命はない、されど望みは捨てられず、彼女と再会したかった。だから、己を二つに分けた。 「余計なものというけれど・・・だからこそあなたは人なのに」 悔しそうにつぶやくアリシアを、目だけでジェイが笑った。 「・・・私と話したかったなんて、嘘ね」 「嘘というわけでも、ないさ」 それきり目を閉じた。しゃべる気はないということだろうか。 どちらにしてもやり切れない。しかし、彼に止めを刺すきにもなれなかった。 アリシアに興味がないという言葉を信じるなら、生活がおびやかされることはないだろうが、"アノ人"に対する興味は尽きていないということだろう。変わらず胸の靄は消えない。 わけもなく胸の辺りで拳を作ったとき、ドクン、と心臓が跳ねた。 許すなという事だろうか。顔をしかめると、もう一度強く心臓が跳ねる。痛みを伴って。 「・・・。そちらの事は、イズルートが決着をつけるべきでしょう」 つぶやき終わったとき、ジェイは絶命していた。奪ったわけではなく、とうとう事切れたのだ。 満ち足りたわけでも、後悔もない。ただ能面のような表情で顔を覆い尽くしたまま、逝ったのだ。 釈然としないが、死者をいたぶるのはアリシアの趣味ではなかった。 後にルーカスが室内を漁った後、判明したのだが。 このとき、アリシアが見届けたジェイは、過去の記憶とそれに付随するいくらかの記録を残し、脳内の情報を『喪失』していたらしい。 「渡すと言ってただろう」 イズルートが搬入されている貴人用の病棟施設内でルーカスが肘をついていた。後始末をタルヴィスに落ち着けると、サカズキからイズルートの確保の報を聞き駆けつけたのである。 同じく連絡を聞いた生徒らは、眠っているイズルートを待っている。別室ではルーカスとアリシア、そしてサカズキと彼に付随する数名が付き従っていた。 ルーカスは入ってきたサカズキを一瞥しただけで、感想を口にするようなことはしなかった。持ってきたジェイの手帳に目を通し終えると一息つく。 「模写・・・写すわけではないんだ。記憶の移植はそのまま譲渡を示すんじゃないか?」 夜はすっかり明けている。 窓から差し込む朝日と、涼やかな風は独特の静けさを帯びていた。その空気は、室内にも浸透している。 「ここにある奴さんの手帳を見るに、奴は協力したカッセルの研究にもう一つ課題をつけていた。それが記憶の移植だ。数多の戦線を潜らせた兵士の記憶を全体に共有できれば、肉体、精神共に強くなれるんじゃないかとな。それを、毎度事に『更新』作業を行う。一人の経験が全体に伝わり、情報の共有ができる」 「・・・それで、グ・ナーハさんを使ったんですか?」 「そう。それで失敗した」 サカズキからも秘密裏に商会内部で回っていたジェイの報告書が回ってきている。そちらにもあらかた目を通し、一人納得して頷いた。 「グ・ナーハの記憶を弄ったと言ったんだろう。それは弄ろうとしたわけではなくて、必要に迫られたんだろうな。おそらく移植の影響で本体は脳に異常を起こした。そして、それを隠すために記憶を移植したグ・ナーハの記憶を改ざんした。・・・この失敗後も似たようなことをやっていたらしいからな、相当問題があったんだろう」 パラっとページをめくる。 「きまじめな男だな。かなり細かく書いてある」 半ば感心した口調だった。 「とりあえず、グ・ナーハは人造の肉体を持った奴と、本体とで二人に分かれた。本体はああなっていたのは言わずもがなで。今回、自身にも同じことを決行した。ただし、違うのは移植する記憶を限定していたことだ」 ・・・忘れたい記憶だけを、自分に残して。 "アノ人"を追い続けるために、いつか追い越し、解明に至るために人間らしい部分をごっそりと、文字通りそぎ落とした存在に託して、残ったジェイ自身をアリシアにぶつけたのだ。 「欺瞞だねぇ」 サカズキのそばについていたニーナが素直な感想を口にした。 「つまり研究のために、体はあの坊ちゃんで、中身は友達を使ったってことでしょ。そりゃ殺されても文句言えないね」 「ニーナさん」 「ホントのことっしょ」 肩をすくめ、そう評した。ニーナは笑ったが、それには冷笑以外の成分も含まれていた。 動機や目的がどうであれ、非人道的な行為が受け入れられるわけではない。まあ、とルーカスがニーナの言葉を奪うように続けた。 「キメラや人造の人を作り出せるあの男の不運な所は、非凡じゃなかったってことだろうな」 「あんたもさ、結構冷たいよね。グ・ナーハって、あんたのオトモダチだったんだろうに」 「悼みかたは千差万別なのでね」 今回改めてわかったことがあるが、ルーカスが時折見せる含み笑いには、高貴な野生獣を思わせる風格と迫力がある。 「あんた、ホントに鷹んとこのやつ等そっくり」 「待った。なんでそこでヤツが出てくるのか聞かせてもらいたい」 「君がアルブレヒトに似ているからだろう」 アリシアには聞いたことのない名だが、ルーカスはそうではなかったらしい。サカズキの言葉に途端、渋面を作りだすとにがにがしく言ったのである。 「最悪の冗談だ」 「冗談なものか。他の連中も話していたが、私も納得できる。血というものは争えん」 「冗談は度を越すと嫌がらせにしかならん。あんたはもうちょっと人を笑わせる練習をした方がいいな」 あくまで冗談で押し通すらしかった。呆れるようなそぶりを見せつつ片手をひらひらと振る。触れられたくない話題らしい。 ルーカスの動向は、以前サカズキに対し殺意を抱いた人と同一人物とは思えないほど違っていた。もっともそう見せることを好む傾向である人と、今までの付き合いの中で理解していたので、アリシアも何も言わなかった。 イズルートが目を覚ましたと知らせの看護士が入ってきたのは、その直後の事だった。 なんでも泣き喚いて話にならないらしかった。 殺してくれ、と少年は喚いた。 イズルートは酷い有様だった。シーツは乱れ、髪は振り乱れ、顔は年頃に見合わず焦燥に募っている。心身的な疲労がたまっているのだろうと一目で見て取れた。 ジーンやハーウェイが話しかけても取り付く島もない。最終的には一人、部屋に閉じこもった。 危ない状況かもしれないが、追い出された側はそうでもなかった。この危機的状況にのんびりとアリシアがサカズキへと問うたのである。 「忘れてました。サカズキ、イズルートはどういう状態だったんですか」 「ああ、正気だった。捕まえたはいいがわざと殺されようとしていたのでな、半殺しにした」 「それはイズルートが悪いですね」 二人の会話を近くで聞いていた看護士が、まさかの犯人の告白に顔を真っ青にした。 半殺しといっても実際は全身打撲に加え両手両足共に骨折。運び込まれたときには前歯はすべて折れ、切り傷などで服は血まみれになり、目を覆う惨状が出来上がっていたのだ。 周囲は大いに同情の空気が出来上がっていたのだが、しかして大人組の反応は違った。 「・・・なんて根性のない」 「若いからな。仕方あるまい・・・いや、それとも打ち所が悪かったか?」 「まさか。傷は癒えてるんでしょう?」 「薬の効果は切れているはずだが」 「しばらく休ませてやったらどうだ?」 アリシア、サカズキに加えルーカスまでそんなことを言い出すものだから、商会組を除いた周囲がぎょっとして彼らを見た。これにはアリシアが眉を寄せ反論した。 「なに優しい事を言ってるんですか」 「あー、まあ気持ちはわかるが、一応けが人だし、な。ショックだったってことも考慮してやれ」 「嫌です」 どうやらなだめようとするルーカスの態度は逆効果だったようで、アリシアは大いに機嫌を悪くした。顎を逸らすと、ノックもせず無遠慮に病室の戸を開いた。 ・・・鍵がかかっていたはずだが、無論、留め金ごと壊れている。 「イズルート」 寝台の上に、両手で自身を抱いている少年がいた。 褐色の肌でも、傍目でわかるほど青ざめ、恐怖で歪んでいる。だがそれは、アリシアに対する恐れではなく、自身に対するものだ。 「アリシア・・・」 「馬鹿なことを言ってないで、早く出てきなさい。みんなが心配していますから」 「ちが、違うんだ。私は」 身を乗り出した。握り締めた拳は、手のひらに爪が刺さったのか白いシーツに染みを作り出す。叫びは震えていたが、それでもアリシアの声は揺るがなかった。二度、三度と同じように促した。 「頼む。殺してくれ」 肩を下ろしうなだれた姿は、生気溢れていた姿とは正反対に、生きる気力に乏しかった。イズルートの要求は語るよりもはるかに率直で単純だったのである。 「・・・ああ、そうですか」 アリシアの忍耐を瓦解させたのは、このときだった。 苛烈な光がひらめくと、優雅なほどの手つきで、だが実はただ乱暴に、紅から刀身を露にした。 安堵を浮かべたイズルートとは対照的に、ジーンなどは飛び出しかけたがニーナやルーカスに抑えられている。 「・・・頼む」 瞳を閉じ、首元を晒すイズルートのわき腹に硬いブーツの蹴りが入ったのは、直後のことだった。 |