机の上で本を広げていた男は、物音に顔を上げた。

「よ」

「またかい、君は」
突然現れた男に驚くことはない。

「咎める気はないけどね、こうも頻繁だと心配してしまうよ。見つかってないだろうね」

毎度の会話だ。ここでいつもなら朱色の男は「んなヘマしねぇよ」と答えるのだ。

それが今日は違う。

嬉しそうに、柔和な笑みを浮かべている。浮かれているのか、機嫌がよさそうだった。

「嬉しそうだね。そんなに楽しかったのかい」

部屋の主の言葉から二人は気の知れた仲だということがわかる。
だからこのように男が笑うのも、友人だというのならばおかしいことはなに一つないというのに。

それは酷く場違いな笑みだ。

男は、殺人鬼だった。
相手の命を奪うことが、息をするかのように当たり前に身近に存在している。

「帰りに偶然見つけてな。やろうと思ったんだが無理だった」
「まさか」

この男の人並みはずれた能力を彼はよく知っている。
そしてこういう冗談ができることもないと、熟知していたので身を乗り出した。

「誰かわからないのかい」

「知らんな。俺が人間の顔を覚えるのが死ぬほど苦手だって、知ってるだろ?」

「苦手ではなく、覚える気がないんだろう」

「いやいや。覚えられねえんだよ」

会話は成り立っているようで、その実、男の発言は支離滅裂だった。だが、彼は慣れていたし、こういう不毛な会話は嫌いではなかった。

「・・・随分上機嫌だね」

「まあな。いつか殺り合うのは絶対だからなぁ―――はは、やべえ。考えると楽しみだ」

新しい玩具を与えられた子供のようにはしゃいでいる。
呆れたように肩をすくめた。

「つくづく思うけど、君は生きにくいやつだ。・・・いや、死ににくいのほうが合ってるのかな」

「案外、あっさり死ぬかもしれんぜ」

「どちらでもいいから、今は騒いでくれるなよ。やりたいのなら仕事を終えてからにしてくれ」

約束は口にしなかった。
彼に従っているのも理由などない。彼は男のことを友人だと呼んでいるが、呼ばれた側はそんな感情は一切持ち合わせておらず、気が向けば簡単に命を奪い取る事もできた。

面白いと思ったのは彼はそれすらも承知して、平然と男と向かい合っている事だ。

だからまあ、興味がむくりと顔をあげ、共にいることにしたのだが、それも今はどうでもよくなりつつある。

あんなのと遭遇できるなんて幸運はそうそうない。

次はいつ会えるだろう。いつ、斬りあえるだろう。考えると爆発しそうだ。
長すぎる生涯は退屈で退屈で、ようやく見つけた娯楽に歓声を上げたい気分だった。

誰も彼も弱いのだ。
弱すぎて、ちっぽけで、男と対等に立てるものが誰一人いない。

物怖じしないのも嬉しかった。女が己を見据えた視線は苛烈で、

「・・・・・・」

男自身忘れ去った、霞と化した誰かの瞳と重なった。
覚えてはいない。男も思い出そうとはしないのだが、時折なにかの拍子にふっと頭をよぎるのだ。

どうでもいい。どうでもいいことではあるの、だが。

"何か"が掠めたときだけは、欠落した"どれか"に近いものが胸に迫るのだ。

男は思う。"欠落"なのだ。記憶のそこに埋もれてしまっただとか、忘れてしまったとかいうことでもない。欠落は、無くしたものだった。
落ちて零れたものがかえるはずもないのだから、考えることに意味などありはしない。

だというのに、そのときだけ男は無為な傍観者に成り果て、わずかに、"何か"に繋がる欠落部分を探し出そうとすることを自由にさせる。

「ブラッド?」

「・・・あー。・・・なんでもねぇ・・・やっぱ、もう一度出るわ。なんか興が削がれた」

「今度はヘマをしないようにね」

「誰に言ってんだ。首ぃ掻っ切るぞ、クソガキ」




夜の街を跳ねながら殺人鬼は街を見下ろした。
狩りをする気にはならない、男にしては珍しく長続きしている思考を気に留めていた。

この欠落を埋めたくて、こんな風に自分は成ったのかもしれん。

それを何度思い出して、何度忘れたのだろうかと、そんなことを思いながら。





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